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アフター・ヤン

人間は如何に傲慢で捻くれているかを教えてくれる。

『アフター・ヤン』

ポスター画像


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「コロンバス」のコゴナダが監督・脚本を手がけ、アレクサンダー・ワインスタインの短編小説「Saying Goodbye to Yang」を独創的な映像表現で映画化したSFドラマ。

人型ロボットが一般家庭にまで普及した近未来。茶葉の販売店を営むジェイクと妻カイラ、幼い養女ミカは慎ましくも幸せな毎日を過ごしていたが、ロボットのヤンが故障で動かなくなり、ヤンを兄のように慕っていたミカは落ち込んでしまう。ジェイクは修理の方法を模索する中で、ヤンの体内に毎日数秒間の動画を撮影できる装置が組み込まれていることに気付く。そこには家族に向けられたヤンの温かいまなざしと、ヤンが巡り合った謎の若い女性の姿が記録されていた。

コリン・ファレルが主演を務め、「ウィズアウト・リモース」のジョディ・ターナー=スミス、ドラマ「アンブレラ・アカデミー」のジャスティン・H・ミンが共演。「コロンバス」で主演を務めたヘイリー・ルー・リチャードソンが物語の鍵を握る謎の女性を演じる。

正直なところ映画を観ていると、誰かの感想とかをあまり聞きたくないような作品もあるわけで、本作はまさにそんな作品。

自分でこんなことを書いていて言うのもなんですが、そういう作品って確かに存在していて、逆に言えば人と話したくなるような作品もあるとは思う。

この作品自体も感想を聞きたくないというより、自分の中でじっくり咀嚼してから話したいというか、他の人の意見を聞きたいような作品。

まあそれも自分にとってはというだけのはなしですが。

年齢的なこともあるのか、最近哲学的な問いというか、以前なら全く疑問に思わなかったようなことについて本気で考えてしまうことが増えた気がします。

そんな本作ので描かれている『死』というものの存在。

これも当然疑問に思う所で、ひいては生きること、人生、自分、他者、そういったものへの問いも内包されたような本作はまさに好物そのもの。

それ以前に作品の緻密に構成されたような構図、美しさ、そういった部分での映像的テイストも抜群に合っている。

冒頭からバチバチに決まった構図で撮られていて、写実的と言うか、美しい絵画やファンタジーの世界を見せられているような心地良さ。

監督自身が小津安二郎にかなりの影響を受けているらしく、その右手であった脚本家、野田高梧の名前を取ってコゴナダという監督名にしたほど強く影響を受けているのは間違いないでしょう。

それもあってか、映像的な美しさは圧倒的で、そこにストーリー上の不自然さや不必要さを感じさせないからこそ一層生きてくるともいえる。

さらにそれを支えているサウンド

日本にルーツがある監督を尊敬しているだけに、使われている楽曲もそういった日本人が多く、Aska Matsumiya(最近だと映画、37セカンズ)だったり、坂本龍一小林武史リリィ・シュシュのすべてで使われたGlideをなんとMitskiがカバー)といった面々が揃う。

とにかく映像とかなり調和しているし、サントラだけでも永遠に聴いていられそうな心地良さと存在感。映画そのものの深みと音楽的深さがマッチして、この世界観にずっといたいとすら思ってしまう。

美術的な美しさもそうで、どこかモダンでありつつ、和洋折衷、近未来を感じさせるような、ぬくもりもあるような。

乗っている乗り物もそうで、撮られているカットが実に近未来的。ガラスの様な反射がある乗り物を外側から撮っているだけなんですが、これも映り込み、反射そういった細部に至るまでかなり気を使って撮影されており、美しいとしか言いようがない近未来感。こういった見せ方で未来感を演出するというのは意外に珍しいものの、ホント良く出来た映像だなと思える。

そんな出てくるシーンは基本的に建物内でのものがほとんどで、町の全景が見えるシーンは確かワンカットだけだったような、そんなレベル。その町自体もかなり引きで撮られているんですが、それまでの積み上げの効果なのか、それだけで近未来を感じてしまうような圧倒的撮影力もさすがと思ってしまう。

その他に出てくるサングラス型の映像を観る装置だったり、博物館などの備品もそう。

見せ方の美しさと言う意味では脳内の記憶の見せ方が圧倒的で、映画館の暗い中に浮かび上がる散りばめられた星の様な光。

これを寄りから引きにかけて撮られているんですが、その広がりを観た時、そこからフォーカスされ、詳細な映像を観た時、脳内に広がる世界の広さを知ったようで、記憶の繋がりと断片、そのかけがえのない空間的広がりに驚かされる。

この演出により、その脳内空間というものが人間だけで無く、人型ロボットにも存在し、もしかしたら他の生物にも存在するのかもしれないと思わせてくれる無限の広がりを想像させる。

知らず知らずのうちに唯一無二なものを皆が持っているにも拘らず、何に憧れ、何を目指しているのか。そこにある『それ』すら意識せず、得ようとしてる見えない『それ』ばかりにとらわれているんじゃないかということに気付かされる。

この感覚は映画館の真っ暗な中で観ないと得られないかもしれないですね。でもそれだけでも行く価値のある映画だと思いますが、本当にそういった細部の見せ方、演出が巧妙で巧い。

そんな全てが計算されていて、一見するとそれが狙い過ぎになってしまいそうなところも見事に調和させているという素晴らしさ。

人物的な役者の配置もそうで、そういった意図を感じずにいられないような巧妙さ。黒人女性の妻、白人の夫、中国系の子供にテクノと呼ばれる人型ロボット。これも差別の無い、全てが調和されたような未来を想像するかもしれないし、実際にそうなのかもしれないと思えるような作り。

でも、それすらも凌駕するような感覚を得られるし、それ以上に考えるべく疑問が浮かんできた気もする。

それこそが、『生』であったり『人』であったり。

枠組みとしてのほぼ最上位にあるであろうこの部分に関して、本当に繊細な余白を残してくれている気がする。それにより人物配置だとかそうした部分に頼らずとも、圧倒的な興味、関心を抱けるんだと思う。

タイトルと言うか作品の切り取り方も見事で、この原作はアレクサンダー・ワインスタインが2016年に発表した短編小説『Saying Goodbye to Yang』をもとにしているそうなんですが、それ自体もこの映画の前半部だけとのこと。なので作品の後半部はコゴナダ監督による脚色なわけですが、それもまた良い塩梅でして。

人と認知していなかった人の様なものを、人と比較してどう捉えるのか。今後考えるべき課題としての事柄に対し、映像的心地良さを担保した映画として、ならではの気付きを与えてくれる良作じゃないでしょうか。

では。