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エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス

高カロリー必至。

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』

ポスター画像


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カンフーとマルチバース(並行宇宙)の要素を掛け合わせ、生活に追われるごく普通の中年女性が、マルチバースを行き来し、カンフーマスターとなって世界を救うことになる姿を描いた異色アクションエンタテインメント。奇想天外な設定で話題を呼んだ「スイス・アーミー・マン」の監督コンビのダニエルズ(ダニエル・クワンダニエル・シャイナート)が手がけた。

経営するコインランドリーは破産寸前で、ボケているのに頑固な父親と、いつまでも反抗期が終わらない娘、優しいだけで頼りにならない夫に囲まれ、頭の痛い問題だらけのエヴリン。いっぱいっぱいの日々を送る彼女の前に、突如として「別の宇宙(ユニバース)から来た」という夫のウェイモンドが現れる。混乱するエヴリンに、「全宇宙にカオスをもたらす強大な悪を倒せるのは君だけだ」と驚きの使命を背負わせるウェイモンド。そんな“別の宇宙の夫”に言われるがまま、ワケも分からずマルチバース(並行世界)に飛び込んだ彼女は、カンフーマスターばりの身体能力を手に入れ、全人類の命運をかけた戦いに身を投じることになる。

エヴリン役は「シャン・チー テン・リングスの伝説」「グリーン・デスティニー」で知られるミシェル・ヨー。1980年代に子役として「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」「グーニーズ」などに出演して人気を博し、本作で20年ぶりにハリウッドの劇場公開映画に復帰を果たしたキー・ホイ・クァンが、夫のウェイモンドを演じて話題に。悪役ディアドラ役は「ハロウィン」シリーズのジェイミー・リー・カーティスが務めた。第95回アカデミー賞では作品、監督、脚本、主演女優ほか同年度最多の10部門11ノミネートを果たした。

これはねぇ、衝撃的ですよ。色々と。

何も情報入れないで観た方が良いのはもちろんですけど、知っていたとしても面食らうのは間違いない。

プロットの本筋は分かり易いものの、そこまでの過程というか、道中のあれやこれやが本当に複雑過ぎてカオス。

ストーリーを簡単に言うと、ある日おばさんが別世界の自分の能力を引き出せることを知らされ、全宇宙を懸けた戦いに駆り出されるというもの。

端的に言うとそれだけのことで、そこに家族や愛といったものが絡んでくるには絡んでくるんですが、プロットとしては極めて分かり易い”はず”なんです。

この”はず”というのが厄介で。観ればわかるカオス感。

映像的な作り込み、設定における作り込み、キャラクターにおける作り込み、とにかく全てにおいて、作り込みが綿密に練られている。故にメチャクチャカオスな映像に仕上がっているんですよね。

特に設定におけるそれが一番話をややこしくしていて、マルチバースであったり、能力を引き出す条件であったりが非常にややこしい。

それがあることで笑える部分もあるんですが、ジョークが行き過ぎでしょと思う部分もあり、何とも言えない世界に迷い込んだ気がしてくるんですよね。

いうならテリー・ギリアム的な世界観に近いなと思っていて、ある種この世界を理解するのは不可能だろうなと思えるほど、独特な世界観。

指がソーセージになる世界ってなんですか。それが一番謎だったんですが、ユーモアあり過ぎて難解過ぎる。しかもストーリーに直接影響してくるような部分でも無いわけで。まあ色々な世界があるということが、あの世界線を描くことで、より拡張されるわけですが。

カンフーアクション的な触れ込みでポスタービジュアルなんかも作られていると思うんですが、正直ジャンル映画的なものを期待して観に行くと全然違う。

もちろんカンフー的な見所や興奮もあるんですが、それ以上にカオスが過ぎる。

ある意味で息つく暇もないくらい一瞬も目が離せないので集中できると言えばそうなんですが、逆に言うと体力消費も半端無い。

メインで起きている話自体はほぼほぼ税務署や家で完結していてシンプル。でも、それ以外のシーンがやたらと挿入され、その挿入もランダムネスで唐突な感じだから非常に混乱してくる。

全てを理解しようとするとそれは無理な話で、盛り込まれているネタや情報を全て読み取ろうとすると置いて行かれるのは必至。

そんな理解がぼんやりした状態で進んでいくんでいくんですが、逆にそれが狙いだったのかなと最後には思えるし、それすらも含めて物語の伏線になっていたんだろうなと思えてしまう。

その風呂敷の畳み方が見事過ぎて、受け手によっては全く意味不明な映画だと一蹴する人もいそうですが、納得できると気持ちの良い作品なのは間違いない。

その辺に関して、自分なりにいくつかの気付きがあったところを挙げていくと。

まず冒頭のシーン。鏡に映る楽しそうな自分達が映るんですが、これが微妙に頭に残った状態で話が進んでいき、終盤の娘と対話するシーンで”あっ”と納得してしまう。冒頭の段階では、何で鏡に映っているんだろう、程度のものなんですが徐々に色々と繋がってくる。

鏡に映るのは自分達であって、映っているのはその時の自分達だということ。

つまり、常に鏡は自分の映しであって、一瞬一瞬の自分達を映しているということ。楽しそうに映っていた自分たちは実際楽しかったわけで、それ自体は何も間違っておらず、真実のみを語っている。

それと同時に、娘や家族といった自分が接する人たちというのもある種の自分の鏡映し。酷い対応やネガティブな感情を持って接すれば、相手もそれに呼応するように対立してくるというわけです。

そういった鏡映しの状況を打破すべく、人の嫌な部分を解消することで勝利していくバトルシーン、そこからの娘との対話という流れで消化されるのも素晴らしく、爽快で痛快。

構図としても生に対する姿勢としてポジティブなエブリン、ネガティブなジョイ。そんな娘との対立項を徹底的に描くことによって浮き上がってくるのは人生への問いそのもの。

二人が石になる場面でのやり取りを経て、”たまたま”この世に意思を持った生命体として生まれてきて、”たまたま”この時代に生まれ、”たまたま”この世界で生きているだけ。

そう考えると全ては『偶然』の現象であるということを映像的にも認識でき、人生の儚さやかけがえの無さなどにも気付かされる。

会話の中にもそうしたパンチラインが存分にあり「本当に意味がある時間なんてわずかなもの」、「正しさは自分の身を守る檻のようなもの」といった響きまくるワードの連続。

終盤まで観た時、自分の中でゴチャゴチャになっていた本作への答えと共に、わからない映画もあって当然。一瞬一瞬、わかるところだけ理解できれば、それでいいんじゃないのか。そう言われているような気がした時、スッと全てが繋がった。

この瞬間が一番気持ち良かったんですよね。しかもこれがほぼラストで起きるという緻密さ。

絶対これって脚本通りですよね。ここまで込みで仕込まれていたと思うと恐ろしいやらなんやら。

しかもこのマルチバースという設定も絡んでくることで世界が広がりを持つのかと思いきや、むしろ、自分には世界がより矮小化したものに見えてくるというのも皮肉的でなつい納得してしまいました。

仮に別のユニバースで自分と同じ人間がいたとしても今自分がいるユニバースでの自分は一人。あくまでも一人の人間はどこまで行っても自分一人なんだと思うとなんとも感慨深かった。

改めて人生って本当に些細なことの連続で、起きていることなんてさらに些細なことの積み重ねなんだなと。

とはいえアクションシーンもそうですし、映像的な見所も盛り沢山。ノイジーでカオスな世界観は是非映画館で堪能して欲しいところです。

そういえば書き忘れていたんですが、ポスターにもあるエブリンの額に映る”目玉のステッカー”の件。

これは個人的には目の前のことすら見えず忙殺されていたエブリンへの戒めをビジュアル化したものなんじゃないのかなと。

逆に劇中に出てくるドーナツというのは穴の開いた空虚な存在であり、目玉の色を反転させたもの。見えるはずのものを見過ごし、色々と取って付けたようにトッピングされた虚無的象徴のモチーフとしてドーナツを登場させることで、あの世界をよりカオスな世界へブーストしたんじゃないでしょうか。

まあ語り出したら他にもあるとは思いますが、とりあえずは自分の思うところを思うままに書き記そうかと思います。

では。