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言語を超えた表現:ベルギー映画『Here』が描く、感覚の旅

本日紹介する映画はベルギーの監督作品。

「言語を超えた表現:ベルギー映画『Here』が描く、感覚の旅」

ポスター画像


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世界的に注目を集めるベルギーの新鋭バス・ドゥボスが監督・脚本を手がけ、植物学者の女性と移民労働者の男性が織りなす些細で優しい日常の断片をつづったドラマ。

ベルギーの首都ブリュッセルに住む建設労働者の男性シュテファンは、アパートを引き払って故郷ルーマニアに帰国するか悩んでいる。シュテファンは姉や友人たちへの別れの贈り物として、冷蔵庫の残り物で作ったスープを配ってまわる。ある日、森を散歩していた彼は、以前レストランで出会った中国系ベルギー人の女性シュシュと再会し、彼女が苔類の研究者であることを知る。シュテファンはシュシュに促されて足元に広がる多様で親密な世界に触れ、2人の心はゆっくりとつながっていく。

この作品自体、知らなかったんですけど、いつも行ってるミニシアターにチラシというか広告が出てまして、そこでこの監督と作品に興味を持ったんですよね。

そんな感じで見てきたんですけど、この作品、単純に物語というか、プロットを追ってこうと思うとすごい難しい作品だなと。

一方で物語とかをたどってく映画でもないのかなっていうのが鑑賞後の率直な感想でしたね。

この作品って画角が1対1なんですよ、常に。それも途中で変わったりするのかなと思って見てたんですけど、変わることなく、ずっと1対1のまんま、いわゆる正方形ですね。

じゃあなんで正方形なんだというところもあるんですけれども、そこはちょっとひとまず置いいておくとして、とにかく冒頭から1対1の正方形の画角から始まって、何気ない写真のようなカットが繋がれてくるんですよ、3カット4カットぐらい。

その間、会話もないですし、聞こえてくるのは環境音だけ。

そういうカットがいくつか続いていくんですけども、それを見てるときに、これ何の映画なんだろうなって思いながらずっと見てるわけですよ。

その段階ではそこには何も気づかず、その音量のバランス自体が、他サウンドに比べて大きいなっていう印象は受けながら、見ていくんですよね。その中で、誰が主人公かもよくわからないっていう状況の中物語は進んでいきます。

ポスタービジュアルに女性が映ってたのでさすがにその女性は出てくるんだろうなって思いながら見ていたわけですよ。

それでその女性が出てくる時っていうのも、思ってたより劇的な登場でもないですし、いたって普通に登場するんです。

なんですけど、その後の関わり自体もそんなに濃いものではなくて、物語は進んでいくんです。

ただ、女性が朝目覚めたシーンから始まるエピソードは意外に感慨深いわけでして。起きたら固有名詞を忘れているんですよ。実際にということではなく、描写としてそういう演出が入っているわけです。

なので名前とか状況の説明みたいなものが一切出なくなっているっていう。起きていることはわかるんだけど、それが何なのかがわからないし説明できないようなイメージ。

そういう朝を迎えたっていうことが語られていくんですけど、そのときに私の中で、この冒頭と繋がるんですよ。冒頭の風景だったりを見せられた時の、わからなさであったり、表現の出来なさ。こういうのって、結局日常でも結構溢れてることだなと思って。

要するに言語化されたことっていうのは、人があくまでも言葉っていうもので装飾したり表現したりっていうことでなされている世界の表現であって、実際のところは物事を言語化なんて出来ないんですよ。

それを思った時、この作品のテーマっていうのは、そういう何か言語とかそういうことじゃなくて、あくまでも、そうではない部分、感覚的な部分で受けた表現、食らった感覚っていうのを受け手としてどう受け取るかっていうところにフォーカスしているのかなって。

当たり前の話ですけど、何かをされたときとか言われたときに、それが言語で例えられなかったとしても、絶対に何かを感じてるわけじゃないですか。

その感じてることを説明することは難しいかもしれないけど、でも間違いなく何かは感じてるわけじゃないですか。

何かを感じる、思う、みたいなところを噛み締めた時に、どういう感覚になれるのかっていうところ。そういったところにフォーカスした映画なんじゃないかなって個人的には思ったんですよね。

そう思った理由がもう一つあって、終盤でのその男性と女性のやり取りの場面。やり取りの中で、女性がちょっと笑顔になるんですよ。

笑顔の意味っていうのも、正直なところはよくわからないですし、具体的に語られるわけでもないんですよ。

ですけど、その笑顔からは何かを受け取る受け取ることができるわけじゃないですか。感覚としてでも情報を受け取ることができるというのは紛れもない真実なわけで、それがその人なりの答えなのかなっていう。

結局誰かの答えで判断してるわけじゃなくて、自分の判断で認識しているわけじゃないですか。

本質というか、そういう深層部分にフォーカスした作品なのかなって思うと、この映画自体の全てが開かれていく感覚があって。

なのでその環境音が、ちょっと大きめに設定されているところなんかも、やっぱりその感覚を研ぎ澄まして、実際その音を感じ取るみたいなところを重視していると感じられるわけですし。

画角が1対1になってるのも、視野を狭くすることで、感覚を研ぎ澄ませる。つまるところ、映画というものを体験、それを通して、感覚を全方位的に高めていくっていう。

物語とかプロットとかそういったことでなく、感覚で受け取るものものに重きを置いてる作品なのかなと。

そう考えると映像的に美しさがあるっていうところも、実風景の美しさ、みたいなところに繋がるなと思うんですよね。

本作ってファンタジー映画とかそういうわけではないので、実世界としての風景が映されているわけじゃないですか。そしてそれを美しいと感じるということは、やっぱり実風景を美しいと感じている感覚を受けているということに繋がるわけで。

もしそれが感じられないのであれば、日常というものを、軽薄にというか、あまりしっかりと見られてない側面もあるのかなっていう。

そういったことにも気づかせてくれる深さがあるんですよね。

映画全体を通して、語りかけてくる、見終わった後に気づきを得られるみたいなところ。そういう発見に至るための映画なのかなっていうふうに私は感じました。

最終的に登場する人物たちの名前であったり、場所であったり、関係性であったり、そういうものの不確かさ、不明瞭さみたいなのがある中、結局は、何かによって定義されるものじゃなくて、自分の感覚そのもの、ただそれだけなんだと思えてくるわけですよ。

人そのもの、それそのもの、そういうことを重視すべきなのかなっていうふうに。

最後のエンドクレジットも面白かったですよね。中々凝った作りになっていて。

部分的に歯抜けになっていて、徐々にそれらが埋まっていくみたいな。そういう感じのクレジットになっているんですけど、結局は、名前であったり、名字であったり、立場であったり、役割であったり、そういう所々が歯抜けになっているんです。

当然の話ですけど、歯抜けになる場所によって、その人の存在というか、その人というもの自体が不確かになりますよね。

実際にそこが埋まっていくことで、その人が何なのかっていうことだとか、その人はどういった役割をこなしていたのかとか、その人の人となりがわかってくるんだと思うんですよ。それって言い換えると本当にその定義されたことが全てですかっていう問いなのかなと思うところだと思うんですよね。

そういう意味でも、エンドクレジットの面白さっていうところは本作の内容にも繋がるなという部分があったわけです。

鑑賞中、その人っていうものが、何なのか、その固有名詞っていうものが何なのか、そうした定義についていろいろと考えさせられた映画でした。

見えてるものが、世界なんだけども、見えてるものだけが世界でもないっていう。

別の表現として、コケが使われていたのも面白いところだなと思っていて、そのコケっていうのは、社会の縮図的なもの、要は地球であったり、宇宙であったりを構築していると言われたりもするんですよね。

世界のあらゆる状況だったり物質があるっていう風に言われていて、そういったところもつぶさな視点で見ないと気づかないですけど、見てみると気づける。そんな世界っていうのもあるのかなという部分も感じたりしながら、鑑賞後に色々と繋がってきた作品でした。

映画の物語を追うのではなくて、感じることの重要性、そこから得られる気づき、そういうことに満ちた静かな美しい作品だなという感じでした。

では。