平塚の田舎道を撮るという前回の続編。
これは何が入っているのかわからない畑や牧場にある謎の物体だったんですが、これも繭を髣髴とさせると同時にグラフィックが描かれると途端に
物体としての終焉を感じたり。
ただ、グラフィックにより新たなオブジェとしての新芽ともとれるんですけどね。
このビニールハウスも現状使われているのか、儚さが残るというのはそこに始まりと終わりが存在するからこそ。
畑に纏わるものってどれもそうだなと思うのが、営みの始まりであり、その場が荒れ地として終わりを迎えてたりもするっていう儚さがあるんですよね。
この家はなんとなく歩いている時に、人っ気を感じず、それこそ空虚な印象から。
そこにもう営みがあるのか無いのか、それは住んでいればあるとか、住んでいないから無いといったものでもなく、家は箱でしかないということを感じさせる独特な空気感がある住宅にフォーカスを当ててみた。
牧場の看板に差す光を見て、その場所における始まりの時間と終わりの時間を感じつつ、日の光との対照性で朝と夕の時間間隔の曖昧さを見る。
何となくぼかして撮ることで輪郭の曖昧さ、物質としての輪郭が薄れ、それ自体の存在が希薄になるっていう。
この風景も歩きながら撮ることでパラパラ漫画にも似た錯視効果、そこから得られる現実と非現実の境界線。
手前の柵と奥の景色、どちらを始点として見るかで変わってくる視点の変化も感じつつ、手前の流動的なブレが水の揺らめきのようにも見え、その流れの支流を辿るような感覚もある。
続く。