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フェイブルマンズ

映像の細部にすらその作家性は宿ってしまうもの。

『フェイブルマンズ』

ポスター画像


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ジョーズ」「E.T.」「ジュラシック・パーク」など、世界中で愛される映画の数々を世に送り出してきた巨匠スティーブン・スピルバーグが、映画監督になるという夢をかなえた自身の原体験を映画にした自伝的作品。

初めて映画館を訪れて以来、映画に夢中になった少年サミー・フェイブルマンは、母親から8ミリカメラをプレゼントされる。家族や仲間たちと過ごす日々のなか、人生の一瞬一瞬を探求し、夢を追い求めていくサミー。母親はそんな彼の夢を支えてくれるが、父親はその夢を単なる趣味としか見なさない。サミーはそんな両親の間で葛藤しながら、さまざまな人々との出会いを通じて成長していく。

サミー役は新鋭ガブリエル・ラベルが務め、母親は「マンチェスター・バイ・ザ・シー」「マリリン 7日間の恋」などでアカデミー賞に4度ノミネートされているミシェル・ウィリアムズ、父親は「THE BATMAN ザ・バットマン」「ラブ&マーシー 終わらないメロディー」のポール・ダノが演じるなど実力派俳優が共演。脚本はスピルバーグ自身と、「ミュンヘン」「リンカーン」「ウエスト・サイド・ストーリー」などスピルバーグ作品で知られるトニー・クシュナー。そのほか撮影のヤヌス・カミンスキー、音楽のジョン・ウィリアムズら、スピルバーグ作品の常連スタッフが集結した。第95回アカデミー賞で作品、監督、脚本、主演女優(ミシェル・ウィリアムズ)、助演男優(ジャド・ハーシュ)ほか計7部門にノミネートされた。

スピルバーグ監督作品ながら、普段あるような演出やスペクタクル感は控えめ。

それもそのはず、描いている部分が幼少期から青年期までの十数年間で、本格的に映画を撮り始める前までのお話。

映像的な盛り上がりは無い話ながら、ここまで引き込まれてしまうのは、確実にスピルバーグならではだし、映画好きなら”おおっ”と思えるようなシーンが満載。

自分自身、スピルバーグの生い立ちなどは全然知らなかったので、序盤で映画に興味を持ったきっかけなんかは非常に興味深かったですね。

怖がりだったというのも意外でしたし、あんなに幼少の頃から映像というものを作っていたというのにも驚き。

それでもさすがスピルバーグと思わされたのが序盤のシーン。列車が車に衝突する場面を再現した映像なんですが、これだけ見てもやはりスピルバーグだなと。

まず、そこに着目と言うか、そこに興味を持つのかというのが意外でしたが、それを実際に再現しようとする発想と行動力。

おもちゃの列車と車をぶつけるというシーンをスピルバーグ少年が再現するんですが、その見せ方、その映像表現がスピルバーグならでは。

あくまでもその映像を作り上げている、今のスピルバーグがという意味ですが、あのシーンをこれだけスペクタクルのある映像に仕上げることができるという手腕はスピルバーグらしさに溢れている。

これは他のシーンでも言えることですが、逆にスピルバーグがどれだけ成長し、立派な映画監督になったということを証明しているようで、作中の表現における完成度がいちいち高い。

意図せずそうなっているのかもしれませんが、幼少期を見れば見るほど、この映画は今のスピルバーグが撮っているんだよなと思わされるという、変な感覚に陥っていく。

ニューシネマパラダイスを観た時も思ったんですが、映像にフレアやゴーストが出てくると、何故か映像が輝いて見えてくるのもわくわくが止まらない。

映像への羨望というか憧れ近い感じ、本当に子供心に輝いて見えていたんだなと思わせる説得力が出てくる。

自分も映画を観出した時ってそういう驚きや羨望みたいなものがあったよなと思い出したりなんかしつつ、スピルバーグが表現する映画体験の世界にグイグイ引き込まれてしまうわけです。

そんなスピルバーグの家庭環境というのにも意外な側面があって、両親が真逆のアイデンティの人だったのも意外でした。

父親は生粋のテクノロジストで母親は芸術家。それもスピルバーグフィルモグラフィーを観ると納得の部分ではあるんですが、裏を返すと、それを知らなかったから理解しずらい部分もあったんだろうなと思える作家性。

まぁ常に暗雲としたリアリティが存在していたり、”あっ”と驚くようなダイナミックな表現、ワクワクするような冒険活劇、かと思えば辛辣な物語といったように、彼の作品って単体で見ると成立しているけど、全然違うような作品のオンパレードなんですよね。

でも、この映画でバックボーンを知ると、そうした両親だったからこその不協和がスピルバーグ自身のアイデンティティに影響し、奇しくも映像としての表現に加味されてしまっているという。実際全ての作品を通してみると一貫した視点みたいなものも見えてきますしね。

本作ではそうしたスピルバーグにおける映像の真実性と恣意性みたいなものが映像的に良く表現されているなと。

映像の力というか、可能性というか、劇中でスピルバーグ自身が言っていたような「映像は意図せずとも本質を映し出してしまう」という部分が一番顕著に出た部分としては紛れもなく家族でのキャンプシーン。

奇しくも映像という性から受け取ってしまった不可避な現実を、まざまざと見せつけられ、そうした映像の残酷性みたいなものにも気付かされてしまったんでしょう。

「起きることには全て意味がある」といっていた母親の言葉に関しても、映像の原点であり、芸術的な思考があればこそなのかと。

起きること、つまり現実には全て意味があり、その真実こそが個のアイデンティティとして積み上げられていく。

起きていることに意味を見出すことが全てだとは思わないけど、事実として起きていることは真実だと言えるわけだし、いずれにせよ受け入れるにはそれを認識しなければいけないという、矛盾めいた教訓のようなものを感じた。

そのようなリアリティこそが彼の映像における真実性の部分。

一方で高校最後の夏休みムービーなんかはその映像におけるまた別の側面。それが編集を挟むことにより、恣意性の高い映像も作り出せてしまうということ。

スピルバーグはその撮ることと編集することの両側面において突出した才能を持っていたからこそ今のようなフィルモグラフィーがあり、独自の作家性を構築しているんだと思うと、ある種の納得感はある気がします。

話によると映画におけるアニメーションの先駆けとなったのもスピルバーグによるものが大きいらしく、いわゆるピクサーとかですかね。

まああれだけ幼少期から色々な試みをしているようなスピルバーグであれば、それは必然だったんでしょう。

幼少~青年期でこそ、そうした発想や思い付きといったクリエイティブな部分を中心に映像を制作していたように見えましたが、成長するにつれ、父親が備えていたロジカルな思考も組み合わさり、さらに映像としての強度が上がった素晴らしい作品を作り上げることができるようになっていった。

あれだけ好きになれるものがあるというのは幸せだなと思う反面、終盤でジョン・フォードが言っていた「芸術というのは苦しいもの、それなのになぜ映画を撮るのか」という問いを考えると、クリエイティブなことをするということは身を削り、己と向き合うことなんだなと改めて思わされる。

そこからラストへの流れは完璧でした。特にあの地平線の件は最高でしたよ。納得感も含めて。

映像的にありがちな構図が面白くないように、人生も百人いれば百通りあるから面白い。要は普通な人生を歩んでいるようでは、面白いものは作れないということでしょうか。

スピルバーグ好きはもちろん、映画が好きな方には間違いなく楽しめる作品じゃないでしょうか。というか映画好きで、スピルバーグが嫌いな人がいるのかが謎ですが。

では。