『日蝕』
錬金術の秘蹟、金色に輝く両性具有者(アンドロギュノス)、崩れゆく中世キリスト教世界を貫く異界の光……。華麗な筆致と壮大な文学的探求で、芥川賞を当時最年少受賞した衝撃のデビュー作「日蝕」。
挑戦しては挫けという本作だったんですが、読み切れば構成自体はシンプルでした。
読み辛い理由として挙げられるのはまず、単語の難しさと固有名詞の複雑さじゃないでしょうか。
単語に関してはとことん古語や旧漢字に寄っているところが多い気もしますが、読むと意外にも大筋の意味合いは理解できてしまう。
固有名詞に関してもそうで、少々頭に入れた状態で読み進めていけば主要人物たちだけの理解でもなんとかなる。
つまりはわからない状態でもなんとか読み進めれば見えてくるものがあるということですかね。
そうして気になればもう一度読めばいいし、調べてみても良い。それくらいラフに読むという姿勢でもいいんだなと、読後に思ったのがそんなことでした。
映画もそうですけど、難しいものが理解できないから好きじゃないというのは違うと思っていて、その中からでも気付きや惹かれるものがあるならそれでいいとは思っているんです。
平野さんの作品には個人的なそうしたものが多く、だからこそ読むわけだけれど、本作もわからないなりになるほどなと思わされる部分があったりもして、それがわりと心地良い。
14世紀という舞台背景もある中、錬金術や魔女狩りといった現代では到底考えられないようなことが当たり前にあった時代、そのことにおける人間というものの一端を知る契機になったというのも個人的には驚きで、本質的な人の性は依然として変わらないんだなと。
人が信仰する理由というのが全く理解できない私なんですが、信仰と情熱が同義であり、互いに原動力として機能することが生きる上での糧になるのだとしたら、それはそれで必要な気もするわけで。
お話に出てくるピエェルはは錬金術をその拠り所とし、人々は宗教をそれとした。
両者ともに理解できるかは別として、結局はそうした目的意識や絶対的なものがないと生きていくことそれ自体がままならないような印象も受けました。
現代のようなイージーに生きられる世の中だからこそ、本質的な生存の理由が置き去りにされ、日々の娯楽めいたスマホやらSNSだらに吸収されていく。
ピエェルが言っていた「万巻の書を読み尽くしたとしても、実際に物質に向かうことをせぬのであれば・・・」という言葉もそうで、結局実体験を伴った経験無しでは何も語れず、無意味ですらあると思ってしまうのは、体感的にもしっくりくる。
ようするに何か生きる原動力を持ってそれを行動として消化し歩む、それ無くして平穩も満足も難しいんだろうなと。
ただ一方で時代に由来する不幸に対して希望を見出すことは馬鹿らしいとも言っているわけで、それもまた然り。
抗えないところを嘆くのも結局は無意味なんですよね。
あくまでもこれは小説を読んでの私的な感想ですが、自分もこの辺の考え方には納得がいくところで、それをもって迫害や危害を受けるとしてもその根幹の考えがそれすらも凌駕していると原動力というものが欲しくもなるんですよ。
でも、抗えないものに無理やりに希望を見出してもそれってなんかまやかしというか一時的な解決でしかなくて、本質的な解決にならないと思うんですよね。
そうした意味でも、本作を読んでの気付きだったり考え方の参考として、自分なりのそうしたものを探すということなのかなと。
ちょっと私的な部分になりましたけど、文章としても難しいながら後半での神秘的な描写などは映像のように迫力ある描写で脳内に浮かびますし、鮮烈な光として差し込んでくる、時よりの言い回しなどはさすが平野さんだなと。
こうしたちょっとした驚き、感銘に触れるだけでも読んだ意味はあるのかなと思っております。
少々難しい部分も有りつつ、読書としての独特の世界に浸るのもたまにはいいんじゃないでしょうか。
では。
81異界は寧ろ
85言葉と云うものが
102神の秩序を解さむ
180失望とは即ち
185ピエェルは嘗て