三島由紀夫は何故か惹かれる部分がある作家なんですが、この潮騒は三島への入口としては非常に分かりやすいのかなと。
『潮騒』
自分自身も何作品かを読んでいる程度なんですが、三島作品、ひいては純文学というと言葉の難しさも相まって、敷居が高いと感じてしまい、手に取るハードルが高いといいますか。
まあそれも含めて体験と言ってしまえばそうなんですが、何度か読んでようやくちょっとわかってくる的なところがあり、でも惹かれる文体としての魅力もあり。
本作に関して言えば、プロットは至ってシンプルですし、小難しいような展開や文脈も感じられないから非常に読み易い。
読んでいてふと思ったのが、私自身は三島の何が気になっていたのかということ。
この作品ではっきりしたんですが、描写における”美しさ”なんですよね。おそらくは。
言い回しや風景、心情といった描写が艷やかで美しい。具体的なところはわからずとも読んでいてハッとさせられるような美しさがそこかしこにあるんです。
景色を見たときに「あぁ、綺麗だな」って思うことってあるじゃないですか。その感覚が三島にはある。
彼の発言や行動だけ見ていると過激で好戦的な印象を受ける方も多いと思うんですが、その実、繊細で思慮深く、真摯に生きていたからこその結果だったのかなとも思えてくるんですよ。
本作ではそうした過激さや奇をてらったような展開は本当に無く、あるのは純然たる”愛”に関してのみ。
人を好きになるという感覚や、繋がるということの本質的な感覚を得た気がして、忘れていた何かを取り戻す感すらある気がする。
歌島という架空の島が舞台なんですが、実際には神島という伊勢湾に浮かぶ島が舞台になっている。まあ出てくる地形や名称を見ていればその辺だということは想像に難くないはずですが。
そんな閉鎖的な島だからこその生活が見せる人としての営み。
便利さとは隔離しているからこその本質的な欲求や人間性にフォーカスが当たるというのも面白く、SNSなどで溢れている情報過多な現代と比較した時の島社会だから浮き上がる噂話というのも現代においては興味深い。
いつの時代も、どんな環境でも人は”情報”というものに魅了され、翻弄されていくものなんだなと。
その中でも芯を持つことの重要性や、本質を見誤らない人間性。なにより今では失われてしまったのかもしれない、いわゆる古き良き的な価値観みたいなものの欠如が人々を執着へと向かわせているのかもしれないなどと思わされる。
照吉や十吉なんかがその最たるもので、経験による判断力が研ぎ澄まされているからこそブレない。
初江と新治がそういった人物に対してちょっとした反発はあれど、信用している感を受けるというのも、道理を通した物言いや態度があればこそ。そうした関係から自ずと振る舞いにも繋がっているのかと。
ようするに上っ面の人物や関係性が少ないんですよね。
凄いことをしたら褒める、駄目なことをしたら怒る、間違ったことがあれば詫びる、他者への経緯を払う。
当たり前かもしれないけど、今の時代は相手を下げることに力を注ぐ人が多いと思ってしまう。
それは何故か。簡単にそうした批判が出来るようになり、秘匿性も加味されているからといってしまえばそれまでだけど正直そういったものに時間を割くくらいなら別のことに割いたほうが良いと思ってしまうのは私だけなのか。
人間の本質的な関係性が生まれるためにはやはり対面で感じるような構築を基にした関係性が必要なんじゃないか。そんな古き良き姿勢めいたことも考えさせられる。
とまあ、作品外の部分での気付きも多々有ったわけですが、初江と新治の関係性であったり描写の美しさ、選ばれた言い回しを堪能するだけでも瑞々しい情景が浮かんでくるのではないでしょうか。
では。
21海は漁師にとっては
27風がわたって来て
32雨のふっているうちに
44お互いの匂いが
48悪意は善意ほど
71こんな思い出にも
118阿保は阿保で
121「なあに、美しいがな」
164三人は杭につかまって〜170終わりまで