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耳をすませば(1995)

原風景ってこういうことなんだろうなと思わせる画作り。

耳をすませば(1995)』

ポスター画像


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柊あおいの同名少女コミックスタジオジブリがアニメーション映画化。

読書好きな中学生3年生の少女・月島雫は、自分が図書館で借りてくる本の貸し出しカードの多くに「天沢聖司」という名前があるのを見つけ、それ以来、顔も知らない天沢聖司の存在が気になっていた。

夏休みのある日、図書館に向かう途中で遭遇した一匹のネコに導かれ、雫は「地球屋」という不思議な雑貨店に迷い込む。やがて店主の孫の少年が天沢聖司であることを知り、2人は徐々に距離を縮めていく。

しかしバイオリン職人を目指す聖司は、中学を卒業したらイタリアへ渡ることを決めていた。その姿に刺激を受けた雫は、本を読むばかりではなく、自らも物語を生みだそうと決意するが……。

宮崎駿高畑勲の作品を支えてきた名アニメーターの近藤喜文の長編初監督作。98年に46歳で他界した近藤にとって、本作が最初で最後の監督作となった。

劇中で雫が生みだす物語世界に、画家でイラストレーターの井上直久が描く架空世界「イバラード」が用いられている。

日々日常を過ごしていると忘れてしまっていること。

忘れているつもりもないし、忘れたいわけでもない。それなのになんなんだろう、この映画を観ると蘇ってくる、忘れてしまった感覚の数々。

95年公開ということを考えれば遠すぎるわけではないけど、今となっては少し遠く感じるような距離感もなんだかちょうどいい。

出てくるシーンや、出てくるもの、出てくる人や、出てくる街並みなんかを観てもそう、今との違いが浮き出てくる。

そんな中でも、内包されている人間の根源的な感覚や情緒なんかは変わらないなと思ってしまうわけで、むしろそれ以上に感じる本来的な在り方みたいなものを感じさせてくれるからこの作品は魅力的なんだと思う。というかジブリにはそういったノスタルジーの本質みたいなものが詰まっているんだと思うんですよね。

技術の進歩によって希薄になってきてしまった人との関係性、コミュニケーションが希薄になり、技術革新により、何でも手が届くようになってしまった弊害。そういったなんとなくモヤモヤと考えていたようなことをドストレートにぶつけられているような感覚。

個人的にジブリ作品で好きな作品に共通することがあって、それが『絶対にアニメーション的な気持ち良さがある』ということ。その意味で本作は『縦を意識した画作り』これが圧倒的に気持ちいい。

街並み、自宅からの風景、地球屋からの風景、雫が考える物語の中での空と地上、学校での屋上からの、図書館への道のり、ラストでの日の出の風景など、挙げたら切りが無いくらい。こういった縦の心地良さというか、気持ち良さがメチャクチャあるんですよ。

物語の中で初めて図書館を訪れる時のカットの割り方と構図、そのテンポ感からの流れなんて特に最高で、ただ図書館に行くだけなのにわくわくしてくる。こういったアニメーションとしての気持ち良さもジブリならではなんですよね。

物語に関してもジブリの中では珍しめな時代設定がツボで。

現代を舞台にしているからこそ、より親近感を感じ、ファンタジー要素が排除されがちになってくるところを、意外にバランス良く混在させている感じ。寄り過ぎないというのが肝だなと思うところではありますが、その辺の設定も良いんですよ。

設定と言う意味では、出てくる美術や建物、家族構成や、家族個々のパーソナリティなんかも含め、絶妙なところを突いているなと。

団地に住み、家の中もあまり整理されていない、雑多な感じ。そこで各々のリアリティあるようなところと、だからこそ染み出てくるような雫のパーソナリティ。

本が好きで、物語が好き、学校での過ごし方や、そこでの歌詞を訳すくだりなど、とにかく物語と言うものに対する憧れに近いところも、あの生活水準で、あの家族、あの時代だから湧き出てくるような環境設定。

やっぱり皆何かを夢見たいわけであって、その夢の見方は違えど、平等に与えられているからこそ見ていたいじゃないですか。

そんな当たり前なことをあれだけ説得力を持って、シンプルに語られてしまったら、それは夢を見るしかないでしょう。失ってしまったそんな感覚が呼び起されて当然でしょう。

雫をはじめ、出てくる登場人物や猫、そうした配置や設定の巧みさがあればこそ出来ることをあたかも当然のようにやってしまう宮崎駿の手腕よ。

同時に、想像することの重要性を感じるというか、それって絶対に他人が踏み込めない領域なわけで、しかもそれは夢を見ること以上に万人に平等に与えられているような行為なわけで。

今って情報をインプットしたり、スマホなんかで時間を浪費したり、文字通り浪費というものに時間や労力を、無意識的に費やしている時代だと思うんですよ。

その中で、思いふけること、空想してみること。こういった一見すると無駄に感じるようなことに時間をかけてみることこそ必要なんじゃないか。その方が有意義に過ごすことができるんじゃないか。雫を見ているとそんなことを思ってしまうわけですよ。

物語の構成的にも、シンプルながら様々な感情が詰まっているなと思っていて、誰かを好きになること、好きになられること、熱中すること、諦めること、努力すること、焦がれること。

ホント考えれば考えるほど、失ってしまったような感情の断片が散りばめれれている気がしてくる。

雫と聖司という二人を軸にしながらも、その他の人物との関係性で深まっていく、アイデンティティを感じさせてくれるし、そのメタファー的な存在としての猫の存在も終盤にいくにつれて、どんどん効いてくる。

あの猫の捉えどころの無さ、要するに個人が抱く感情の捉えどころの無さを象徴しているようで、段々響いてくるんですよね。その存在自体が。しかも、風貌も徐々にチャーミングに見えてくるというジブリマジック。

バロンの存在もそうで、人やモノにはそれぞれ物語があり、物語の積み重ねがそれを構成していく。

エンゲルス・ツィマー(天使の部屋)と表現されていた、人形を作る際に出来た傷が元で起きる光学現象。

これもまたその人形独自の歴史ですし、その歴史が見せる素晴らしい現象、それこそが人を惹きつけ、心を奪うようにも思える。

原石の話もそうで、磨いたことでダメになるもの、逆に磨くと輝くもの、どちらになるかはわからないけど、誰の中にも原石は眠っているわけで、それを磨くかどうか、どの原石を磨くかどうかというのは個人の裁量次第。

まず、磨こうとすることそれ自体が非常に重要で、ダメなら別の道を行けばいい。雫の母が学校で学び直しているように、姉が進路に悩み大学に行くように。

その関係性としても聖司は良いパートナーなわけですが、彼自身も試さないで何かを決めつけることはしないし、何より全ての行動に後ろめたさが無いところが良い。

一番端的に表しているのが雫にイタリア行きの話をするところですが、クラスを訪ね、人目も気にせず呼び出す。その後の屋上でのくだりにしても素直に率直に雫に伝えるという思い切りの良さ。これは背中押されますよ。

この辺にしても、今の時代はやらなくてもわかるとか、諦め、時間の無駄、そういったIT時代に成就されてしまった、わかってしまう感、これのアンチテーゼを感じて、ただただ熱くなってくる。

そこに恋愛要素や学園要素の王道路線を加えることでまあ完璧ですよ。

冒頭にも書きましたけど、それを纏め上げるジブリ独自のノスタルジー効果。この映像としての、アニメーションとしての見せ方が完璧だからこそ、ホントに近しいものとして感じてくる。

心の中にある、あの日の風景のようなものを圧倒的なリアリティで蘇らせてくれるからこそこんなに響いてくるんでしょうね。

今年の夏にどうやら宮崎駿監督の新作も出るようなので期待をブーストする意味で色々と観返してみようかなと思います。

余談ですけど、これって原作がりぼんに掲載されていたもので、しかも打ち切りになった作品だって言うんだから面白い巡り合わせですよね。

風立ちぬもそうですけど、宮崎駿

では。