人の営みは繋がりのもとに。
『セルフィッシュ・サマー ホントの自分に向き合う旅』
「俺たちニュースキャスター」のポール・ラッド&「イントゥ・ザ・ワイルド」のエミール・ハーシュ主演で、冴えない道路修復作業員2人組の珍道中を描いたロードムービー。
「スモーキング・ハイ」のデビッド・ゴードン・グリーンがメガホンをとり、第63回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(監督賞)を受賞した。
1988年、テキサス。道路修復作業員の中年男性アルビンと、彼が助手として雇った恋人の弟ランスは、前年の大規模森林火災で破損した道路を修復するため旅に出る。
生真面目なアルビンとマイペースなランスは初めのうちは対立してばかりいたが、一緒に旅するうちに徐々に打ち解けていく。
エミールハーシュはロードオブドッグタウン以来好きな俳優で、本作もそんな感じで見出したんですが、やっぱり良かった。
物語は本当に本当に無い。
道路に線を引いていくという仕事をこなす日々を描いているだけ。
ただロケーションと相まって、何もない空間における状況が生み出す、真の自分との向き合い方。向き合いたく無くても向き合わされるそのシチュエーションがやたらと心地良く、見ているこちらですら向き合っているような気持ちにさせられる。
間違いなくその一役を担っているのがカメラワークだと思っていて、映像の切り取り方が絶妙。
フィックスと手持ちのバランス感、画面内の空間や余白の捉え方から、より映像に埋没できるような不思議な魅力があった。
自然に身を置くことでしか判り得ない感覚を見事に表現しているなと思いつつ、ストーリーがない中でも、ある種の核心を持って迫ってくるものがあるのも、面白いところかもしれない。
テキサスであった山火事後の話として描かれていること、作中での『愛は幽霊のようなもの』というセリフ。
生と死の曖昧な境界線的なものも感じさせ、一本の線として生きているはずの流れの中で、突然訪れる断絶と継続を経て、自分の存在と他者をどうとらえるのか。
難しいようでいて誰にでも起きうる向き合い方を問われているような。
自分を知るということは一見簡単なようでいて、他者との関わりであったり、その社会であったりといった外部要因から構成されるところが多いことにも気付かされるし、故に幽霊のような不確かな要因が多分にあるんだろうなと思わされる。
ラストの展開に関してもそういった不確かさのモチーフとして描かれていたのかもしれないと思うと突飛に見えるラストシーンも意外にしっくりきてしまう。
相反するような気質のアルヴィンとランスが徐々に互いの距離を縮めていくこともその表れだと思っていて、人には自分には無いと思っている側面でも実際には全く無いということは無くて、何らかの理由やしがらみによって自分自身で閉じ込めてしまっていることもある。
いわゆる自分では気付いていない自分らしさ。
きっかけや譲歩、そうした間口を少し広げるだけでも自分自身は変われるし、受け入れてしまえば思っている以上に気が楽にもなるものなのかもしれない。
馬鹿げているし、物語も無い、ダイナミックな展開も無いけれども、心理的に受けるエモーショナルは響くものがある気がする。
一番響いたシーンでもあった、山火事で家が全焼してしまった場所でのアルヴィンが遺品を探す老婆と遭遇する場面。
老婆が語る重みのあるセリフで「全て燃えてしまった、私が積み上げてきたものはもう何も無いし、それを証明するものも何も無くなってしまった」という感じのものがあったんだけど、これは本当に考えさせられた。
よく、全てが無くなってもその時間や積み上げてきたものは意味があるって言うけど、本当にその状況になった時、はたしてそこまでポジティブに思えるものなんだろうか。大切にしていた何か、思い出の品、自分というアイデンティティを構成するもの、それらを失って尚、そう思えるだろうか。
そう考えた時、生きる意味や、死ぬことについて否応なく向き合わされた。
一人になりたい時もあるだろうけど、それはその時間を選択できる状況にあってこそ。それを痛感したのもそのシーンだったし、結局のところ何かがあって、満ちている状況だからこそ、人は何かを欲するという欲求が存在するんだろうなと思う。
アルヴィンが終盤では人との関わりに対して態度を緩めた展開を考えると、結局人の営みは人との関係性があってこそなのかと。
生きていく上で自己の欲求を満たす為だけに過ごしたとて得られるものは極僅かなのかもしれない。
思った以上に深いテーマをコンパクトに、それでいて美しい森の自然と共に浄化されるような善き作品でした。
では。