不穏な揺らぎの心地良さ。
『寝ても覚めても』
4人の女性の日常と友情を5時間を越える長尺で丁寧に描き、ロカルノ、ナントなど、数々の国際映画祭で主要賞を受賞した「ハッピーアワー」で注目された濱口竜介監督の商業映画デビュー作。
第71回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品された。芥川賞作家・柴崎友香の同名恋愛小説を東出昌大、唐田えりかの主演により映画化。
大阪に暮らす21歳の朝子は、麦(ばく)と出会い、運命的な恋に落ちるが、ある日、麦は朝子の前から忽然と姿を消す。
2年後、大阪から東京に引っ越した朝子は麦とそっくりな顔の亮平と出会う。麦のことを忘れることができない朝子は亮平を避けようとするが、そんな朝子に亮平は好意を抱く。
そして、朝子も戸惑いながらも亮平に惹かれていく。東出が麦と亮平の2役、唐田が朝子を演じる。
濱口監督の感情を揺らがせる感覚って、ホント緻密に練り込まれていると思うんですけど、それを緻密さ抜きにしてもダイレクトに伝わってくるところこそ凄いなと毎回思わされる。
本作もその禍々しさというか、人間の深層心理というか、感覚的な問いが詰まっているなと改めて感じた。
主演の東出さん、唐田さんの演技に関しても同様の特徴があると思っていて、まさにその辺の感覚が合致した奇妙さ。
登場人物としてそこにいるのに手応えが無いというか、不確かというか、そういった歪な存在感という意味において、かなり良い演技だったんじゃないでしょうか。
実際、東出さんに関してはそうした演技は十八番ともいえるくらい他作でもその魅力は発揮されていると思いますし。
そんな本作で描かれるのは『恋』とか『愛』とかそんなもの。
この恋と愛の区別も難しいところだと思いますが、私自身は恋の先に愛があると思っているんですよね。
その上で、そもそも恋愛の本質って禍々しいものだと思っていて、恋は盲目なんていう言葉もまさにそう。
何がきっかけで始まるかもわからない、どれだけ続くかもわからない、いつ終わるかもわからない。
客観的に聞けば、そんな不安しかない状況になぜ身を置くのか、といった風に思ってしまうくらい、得てしてよくわからないもの。
しかもその渦中にあってですら、噛み合わない、わからないようなことの連続で、不安定な状況に自ら好き好んで飛び込んでいく、極めて不安しかないことの連続。
なのに誰もが人を好きになってしまうし、そうせざるを得ない。
これってホント不思議なことだなと思いつつ、本能的に刷り込まれた感情なのかなと思う以外に納得できる考えが浮かばないくらい。
本作ではそうした諸々を、消化し、人間の根源的なカタルシスと融合させ、映像的に非常に興味深く仕上がっていると思う。
毎回思うけど、本当に脚本が素晴らしい。
自分自身が、映画を観る理由に『物語』というのが結構大きいんだろうなということを感じているが、その意味で濱口作品は十分過ぎるほどの満足感を与えてくれる。
物語の構築が、丁寧なんだけど、歪で不可思議、黒澤清的な部分を感じるところもあるんだけど、それ以上にシャープネスが効いているというか、ソリッドな印象なんですよね。
作中で描かれる入れ子構造というのも毎回楽しみで、解釈と考察の余地が視聴者に委ねられているところもかなりツボ。
この辺を語りだすとかなりマニアックなところになってしまうので割愛しますが、そうした深堀により発見できる映画の多重性を内包しているところにこそ、濱口監督の真髄があるのかと。
ちなみにこの三作品において関連するところの『関係性』っていうのが本作の核心だと思っていて、視線であったり、羨望であったり、過ちであったり、こういった感覚を他者と共有するということ、それを実際に行うことが出来るのか否か。
簡単に言うと、恋愛という中で相手をどう認知することが出来るのか。
自分自身のことでさえ上手く理解できないと思っているし、それですら日々葛藤している問題が累積してる。それなのに他者をどう認知すればいいのかという正解がそもそもあるのか。
正直、正解とか、不正解とかいった類の話では到底無いと思うし、作品内での結末を観ると、どういった可能性があるのかといったことの提示で終わっているように思えるのだけど、これもまた良い。
海から川へといった通常の流れと逆行した見せ方で描かれるラストシーン。川をバックに二人の見つめる先は同じ方向。
星の王子様の作者として有名なサン=テグジュペリの名言にもある『愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである』というものを考えると、しっくりくるところもあるかと思う。
常々思っていることだけど、人は人を外見と内面どちらでどれだけのことを判断しているのかということ。
確実に言えるのはどちらかのみで判断しているというのは詭弁であって、必ず両方を知覚、認知していると思う。
恋愛面で言えば、中身が変わってもその人を好きでいられるのか、外見が変わっても、その人が別人にすり替わってても、突然性格が豹変しても、例を挙げればキリがないくらい複雑かつ、永遠に続く問いが頭を悩ます。
人が人を好きになる時に理屈よりも感覚が機能し、その後理屈が迫ってきた時、自分は何を基準に選ぶのだろうか。
作品を観ていて、特に共感できた場面が終盤での亮平が朝子に対し、ある種の許しを与える場面。
一度抱いた愛情という感覚って、どんなに腐っても、絶望しても、全く無くなるということは無いんだろうなということ。
どんなに嫌いになろうが、ゼロにはならない気がしていて、これは不思議でしょうがないのだけれど、自分にとっては間違いない事実。
これも人によるところが大きいんだろうけど、こと自分に関しては全く拒絶するという所には至らない気がしている。
最後に牛腸茂雄の印象的な写真にもある、こちらを見据えた二人の写真から。
作品内でも印象的に使われていると思うけど、この視線と他者性は非常に良い気付きを与えてくれた。
上記で書いたサン=テグジュペリの名言然り、他者とは視線を交わさなければコミュニケーションはとれないけれども、それは必ずしもそうでは無いし、その関係性によっても変わってくる部分があると思う。
ただ視線というものがその意思を先行し、無意識に各々を導いているとすると同一方向を見据えていることもまた感覚的な意識の共有なのかもしれないと思えてくる。
相変わらず語り足りないわけですが、その余白もまた映画の善き余韻になるのかもしれません。
では。