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ハウス・ジャック・ビルト

芸術は狂気と紙一重なのか。

『ハウス・ジャック・ビルト』

ポスター画像

ダンサー・イン・ザ・ダーク」「ニンフォマニアック」の鬼才ラース・フォン・トリアーが、理性と狂気をあわせ持つシリアルキラーの内なる葛藤と欲望を過激描写の連続で描いたサイコスリラー。

1970年代、ワシントン州。建築家を夢見るハンサムな独身の技師ジャックは、ある出来事をきっかけに、アートを創作するかのように殺人を繰り返すように。

そんな彼が「ジャックの家」を建てるまでの12年間の軌跡を、5つのエピソードを通して描き出す。殺人鬼ジャックを「クラッシュ」のマット・ディロン、第1の被害者を「キル・ビル」のユマ・サーマン、謎の男バージを「ベルリン・天使の詩」のブルーノ・ガンツがそれぞれ演じる。

カンヌ国際映画祭アウト・オブ・コンペティション部門で上映された際はあまりの過激さに賛否両論を巻き起こし、アメリカでは修正版のみ正式上映が許可されるなど物議を醸した。日本では無修正完全ノーカット版をR18+指定で上映。

常に思うこと、何かを作るとか考える時になぜそう思うのかということ。

全く無意識的に何かをすることは出来ない筈だし、何かしらの製作者側の意図が入るものだと思う。

ただ、普通は常識や理性、社会性などが入り込み、ある種の線引きが為されるはずだと思っていて、本作のような主人公にはそういった線引きがされず、本人の中で事象そのものをどう捉えてるのかすらわからないように見える。

そんな人がいるというのもまた事実だろうし、意外に身近にもいるのかもしれないと思うと本当にゾッとする。

一方で芸術のような答えのない追及を考えるとアリな気もしてしまうところが不思議。人の善悪とか行動の正当化って何でされていて、何でそうなっているのかわからなくなる時もある。

例えば作品内で出てくる狩りの場面にしても、他の動物を狩るのは正当化され人間を狩るのはなぜ非難されるのか。

自分自身に刷り込まれている感覚はそれを正当化しないが、状況が変わればどうなるのかはわからないとも思う。戦時中なんかはそういった愚行が当たり前のように行われていたわけだし、人はそういった『慣れ』に弱いのかもしれない。

作品内での序盤と終盤に描かれていた、草を狩る音が好きということ。それが呼吸をするように理路整然と刈られていく心地良さ。彼自身に刷り込まれた原風景が、歪んだ形で人を狩り、その呼吸そのものを楽しむという形に変わっていったのだとすると、それはまた狂気的であるとは思うものの、誰の中にもある何かなのかもしれないと思ってしまう怖さがある。

まあ芸術性と狂気性は表裏一体なのかもしれないと思ったとだけでも本作の価値はあるのかもしれない。