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お嬢ちゃん

それぞれの抗えない性分と向き合うこと。

『お嬢ちゃん』

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大ヒット作「カメラを止めるな!」を生み出した映画専門学校「ENBUゼミナール」のワークショップ「シネマプロジェクト」の第8弾で製作された2作品のうちの1作。

俳優として活動するかたわら映画監督として作品を手がけ、劇場デビュー作「枝葉のこと」が第70回ロカルノ国際映画祭コンペティション部門に出品されるなど、国内外で注目される新鋭・二ノ宮隆太郎が、夏の鎌倉を舞台に、ひとりの若い女性の生き方を描いた。

鎌倉に暮らす21歳の女性みのりは、観光客が立ち寄る小さな甘味処でアルバイトをしながら生活していた。一見普通の女性に見えるみのりだが、実は彼女は普通ではなく……。

こんなにスリリングな作品だとは思いませんでした。

異質な雰囲気が漂う冒頭、いったい誰にフォーカスが当てられ、何が語られていくのか、移りゆくカメラの視点を追いながら、全くわからずに進んでいった先の唐突さ。

これは何とも言えない衝撃でしたね。

謎、謎、謎な展開の中、ぐいぐいと引きこまれてしまう。

開始早々から展開されていくトークの面白さと個々人が見せる人間性が面白い。

「あるある」と思ってしまうような会話劇なんですが、こういう形で見せられると妙な親近感を覚えるというか。

その後も主人公であるみのりを中心にありふれた日常が繰り広げられるわけですが、あくまでもそれはみのりにとっての日常なんです。

かなり変わった性格で頑固。どういった環境がそうさせたのか、それらを匂わす部分はあるものの、決定的なそれは明示されないし、出てくる伏線らしき人間関係も回収されず、とにかく全てがフワッとしている。それなのに引き込まれてしまうし、それでいいとすら思ってしまうんですよね。

そんな様々な人間関係にフォーカスを当て、それぞれの性みたいなものを浮き彫りにしていくんですが、こんな群像劇は初めてで、かなり奇妙な感覚がする。

よく、「人は人、自分は自分」とか「人間同士、所詮は他人でわかりあえない」といったようなことが言われるけど、実際はただ言っているだけな気がするんですよ。

本作にはその違いを会話劇や関係性から描く、独特な群像感がある気がします。

一見すると関係ない様なシークエンスも、根底にある『個の群像性』から考えれば必然的に見え、最後にはすっきりと収束してくる気がする。

みんな自分は普通だと思っていて、そうじゃないと思うと不安になるし悩みもする。けど、それって当たり前で、それでも良いって思える関係性の人と付き合っていけばいいんじゃないでしょうか。

忖度して全員と調和しようと思ってもそれ自体不可能なことだと思うし、それが本人にとって最善だとも思わない。むしろそれで自分の人生を生きていると言えるのかなとすら思ってしまう。

そういった諸々を、みのりは体現しちゃってるんです。悩みながらも。

そんなみのりという人物の存在自体がこの映画には不可欠で、みのり自体が個の群像性を包括したパイプ役になってると思うんです。

個の異質さを持ちながら、相反するような一般受けする容姿も持っている。これが余計に物語をややこしくしているんだと思うんですが、そこが逆に良く効いている。

劇中でも「女の人って可愛い方が得をする」というような会話も出てきますが、本当にそうで、女性からも良いように利用されるし、男性からもちやほやされ、一見すると不自由なく生きていける気がするんですよね。

そんな外見を持ちながら、自分という面倒臭さを認識して生きているみのり。そんな周囲の目線にも冷ややかに客観的に対応するところなんかはメチャクチャ共感できるというか、世界をそういった目線で捉えているところにグッとくるんですよ。

誰の物差しで測ったらそうなるのか、何でそんなことすら考えられない人が多いんだろうかと思えてくる。

皆見えない一般論という名の見えない物差しで測ろうとするからおかしなことになるんですよ。規律や規範のような最低限度のモラルすら守ってれば良いんですよ。

だって皆誰かから見たら変わり者なんですから。

そんな主人公みのりを演じた萩原みのりさんですが、演技が凄く良いですね。監督もキャスティングの時点で考えていたと言っていましたが、ここまでハマるのも見事。

いつも仏頂面な感じに冷めた視線、歩き方。全てがみのりを表現している。

映像的にもかなり独特で、手持ちカメラのある種ドキュメンタリー感。それだけなら良くあるんですが、誰かがストーカーでもしてるんじゃないかというような視点だったり、雑に放置されたカットだったりというのが作品の異様さに寄与している。

あとは持論ですが会話劇が面白い作品は間違いないと思っているので、その意味でもあ本作は完璧かと。

タイトルのお嬢ちゃんという可愛らしいネーミングすらも鑑賞後は皮肉に見えてくるという。

何も起きなかったはずなのに十分に満たされました。有難う御座います。

では。

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黒い家

狂気的な描写がリアル過ぎる。

『黒い家』

貴志祐介さんは小説を読み出した時から好きな作家さんで、本を読んでいるだけなのにゾワゾワするというか、ホラー映画を観ている時のような、ある種独特な恐怖への潜在的興味みたいなものを刺激される作家さんだったんですよね。いわゆる怖いもの見たさとでも言いますか、そんな感覚に近かったのかもしれません。なので本を読まなかった自分でもハマったわけです。

伊坂幸太郎さん同様、小説を読み出すきっかけになった作家さんだったこともあって、最近はそんなに読むことも減りましたが、何となく読みたくなりまして。

そんな本作黒い家ですが、映画化もされましたし、小説自体も貴志祐介さんの代表作と言っても良いような怪作。

映画は観たいと思いつつまだ観れていないのですが、評判は中々なようで。

とはいえ、こういう表現の生々しさとかディーティールを想像したいような作品って、小説の方が惹かれるケースが多いんですよね。

タイトルの黒い家からして不吉というか、絶対何かあるでしょと思わされるようなネーミング、まぁ当然何かある訳ですが、その何かが予想以上にエグかった。

それ以上にエグかったのはそれらの描写な訳ですが、文字情報でここまで生々しく状況表現ができるのかという驚き、それと共にその空気感までも脳内に表出させる文章力は流石です。

ストーリー自体は今ではありがちな保険金殺人なんですが、その描き方や説明の仕方も実に自然に入ってくる。

難しそうなワードや表現が出てきがちな設定にも関わらず、小出しかつ、反復して出てくることで、スッと入ってくる。この辺は他の貴志作品でもそうなんですが、専門的な知識が邪魔をしないストーリーテリングがあってこそじゃないでしょうか。

登場人物にしてもそこまで個性的な人物が出てくる訳じゃないのに、よく整理されており理解しやすいことも物語を把握するうえでわかりやすい。

まぁ数人はメチャクチャ個性的というか、マジで狂気的なぶっ飛び人間も登場する訳ですが、そのキャラ以外も意外に印象に残っているところがポイントな気がします。そのバランス感覚も貴志作品の特徴な気がします。

それにしてもあそこまでリアリティを持った表現はどうやったらできるのか、作品内の残虐な行為同様ゾッとさせられるところです。

まぁ貴志作品は全てにそういった部分はあるわけですが。そんな人の根底にあるような興味をそそり、見なければ、知らなければ良かったと思う安易な好奇心を、小説の世界ならではの世界観で表現されているところこそ、魅力的に惹かれる部分なのかもしれません。

いずれにせよ、自分の勘が働くようなヤバい場所、人、事には近付かないのが賢明なようです。

では。

2022年末に巡る荒廃と新芽の旅~横浜関内周辺編Ⅱ~

前回からの続編。

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何となく雰囲気的に向かった先が山手方面。

『2022年末に巡る荒廃と新芽の旅~横浜関内周辺編Ⅱ~』

とりあえず公園らしき場所でベンチがあったので休憩をすることに。

と、後ろを見ると、これは何なんだ。プールなのかなんなのか。

たまたまベンチがあった背後から見えた何か。こういう木々の間から見えるミスマッチな風景って前から好きなんですよね。

しばしの休憩後、そのまま上に上がっていくと何やら遺跡というか廃墟というか、そんな跡地にも遭遇。

ここは山手80番館遺跡という場所らしく、壁面にその詳細が書かれていましたが、周囲の雰囲気含め、静かな環境でして。

こうした木々の質感、表情、こういったのを捉えられるのも写真の良いところなんですよ。

そこから少々上がると山手の住宅街へ。

さっきの伊勢佐木町が何だったのかと思ってしまうほどの空気感の変化。近いのに遠い。やはりそう思わずにいられません。

この辺の海外のような街並みなんかを含め、こんな所にこういった場所があるのかと思いつつ、この辺を中心に是非また散策に来たいところ。

それにしても海外の墓地は何故か憧れてしまう。友人とも話していたんですが、スーツを着て、煙草に火を付け献花したい、そう思ってしまうのは映画の観過ぎなのか。

この中央のメメントモリ。このシチュエーションでこれは痺れる。

意味としては引用ですが

メメント・モリ(羅: memento mori)は、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬ事を忘れるな」「人に訪れる死を忘る事無かれ」と言った意味の警句。

ホントその通り。

続く。

リトル・ミス・サンシャイン

結局家族は家族なんだということ。

リトル・ミス・サンシャイン

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サンダンス映画祭で絶賛され、第19回東京国際映画祭でも最優秀監督賞、最優秀主演女優賞、観客賞など最多3部門を受賞したロードムービー

アリゾナからカリフォルニアまでのバス旅行を通じて、崩壊寸前だった家族の再生を描く。

監督はこれまでジャネット・ジャクソンやREMなどのPVを手がけ、本作で劇場映画デビューを飾ったジョナサン・デイトンとバレリー・フェリス夫妻。

元気が出て、笑える、100分という時間も丁度良く、年始の何とも言えない気持ちを吹き飛ばしてくれます。

この映画の何が良いって、『全く忖度が無いこと』。

これに尽きるなと思っていて、冒頭からラストまで、とにかくノンストップの珍道中。

序盤から色々と衝撃的と言いますか、これってOKなの?と思ってしまうくらいブラックな感じが漂っているんだけど、これこそ紛れ無き現実なんだと思うと、やっぱり人生そんなに甘くは無いわけで。

そんな生きるということにおける、目を背けたくなるようなことから全く目を逸らさせてくれないキャラクターたちも賑やかで実に楽しい。

それが家族というのもポイントで、確かに家族って一番近い共同体、のはずなんですが、近年では年齢や核家族化によって、壁、というか逆に家族だから(ある意味でよそよそしい)といったような空気が蔓延していると思うんですよね。

それを一切取っ払って、まあそういう空気感も一掃するような潔さ。この辺に意外な発見や気付き、そうだよな、といったような諸々を考えさせられる。

スマホやTV、パソコンやゲームといったものの存在も大きいと思いますが、そういったものによる個で楽しめることが増えてしまったから生じる自分時間というなの贅沢時間。

それが一時であれば良いのかもしれませんが、正直蔓延しきって、全てがそういう時間と言う人も多いんじゃないでしょうか。それは大人子供問わず。そんな家族であって、同居人の様な空気感が本作には皆無なんです。

ガンガン踏み込んでくるし、パーソナルスペースなんて無い様なもの。でもそれを半強制的に強いられることでこそ見えてくる否応無さ、そして知らされる家族はどこまでいっても家族なのだということ。

そんな当たり前のことを痛快に、かなりブラックに切り込んでくるから面白いんですよね。

しかも、その中で描かれる家族が全員何か闇を抱えているというのもポイントで、これも普通に考えれば当たり前の事なんですよ。

だって、家族だって突き詰めれば個人なわけで、だからこそ個々の悩みや葛藤、言えない事や思っていることは当然あって然るべきですし。

ただし、それらの見せ方と言うか、アプローチに関しても一切遠慮無し。

冒頭から叔父は自殺未遂、母親はタバコ吸いながら病院に向かい、父は騙し、騙され、口も悪過ぎ、じいさんはヘロイン吸って、兄貴はしゃべらない。唯一真面目に映るのがオリーブただ一人。

この設定も終盤に効いてくるんですが、オリーブの純粋無垢な感じが意図せずとも、この難あり家族の中で良い緩衝材として機能してくるんですよ。何より癒される。とにかくこのオリーブがいるからこそ、雰囲気が担保されているというか。

終盤のコンテストに出る、出ない話の時のオリーブの演技とその局面をどう展開するかは泣けてすらきますよ。

体裁を気にすることに終始し、気付かないうちに悲観的なループにハマっていく大人になってしまった。これって誰でも心当たりがあるところだと思いますが、それは結局自分で自分に枷を課しているいるだけで、本当はそんな枷は存在しないし、したとしても、わかってくれる人は必ずいる。それを忘れ、控えめな行動に終始してしまう恐ろしさ。これがむしろ逆効果なのはわかっているはずなのに、どんどん思いきれなくなってしまうんですよね。そんな当たり前のことを教えてくれるオリーブに感謝。

みんな口では好きなこと言うんですよ。「人生一度きり」とか「後悔しないように生きろ」とか。そんなことは皆わかっていて、自分で色々な言い訳を用意しブレーキをかけている。それが今の自分なわけですよ。

じゃなくて、実際必要なのはオリーブを見て気付くような、『シンプルに自分に嘘無く過ごすこと』、これが最重要課題であって、ただそれだけなんじゃないかとすら思えてくる。

そう思ってこの作品を観ると、他の家族もそれが出来ているんですよ。

好転しているかどうかは別として、それをするからこそ、真に分かりあえる可能性があるし、それを家族という最少フォーマットで行うからこそ意義がある。少なくともこの映画では。

正直、アウトな行動の連続ですよ。でも、この家族を見ていると、結果的に、良い家族だなと思ってしまうんですよ。

誰にも言えないような事でも、家族だから言えてしまう。時には感情が爆発して喧嘩になることもあるかもしれないけど、それも社会で生活する上でのガス抜きになるとしたら、それもそれなのかなと。

とにかくこの作品を観たら素直に生きよう、そう思わずにいられない要素が詰まっているんじゃないでしょうか。

では。

2022年末に巡る荒廃と新芽の旅~横浜関内周辺編Ⅰ~

今回は久々の写真巡り。

『2022年末に巡る荒廃と新芽の旅~横浜関内周辺編Ⅰ~』

何となく向かったのは普段あまり行かない関内周辺。これもみなとみらいでは無く、あえての関内からアプローチということで、意外に新鮮に感じるかと思いまして。

降り立ったのは2022年12月31日。

スタート時にこれまた何となくテーマは無いかなと思っていた所、相棒から良い言葉をいただきました。

自分が一枚撮った構図を見て一言「なんか年末に退廃したような写真撮るのも良いよね」。

はい、これに決定。

それにプラスして自分の中で新しい息吹みたいなものも少々入れたかったので、そんな感じで撮り始めました。

ちなみにその一枚目がこれ。

なんかこの空とのコントラストと、昭和を感じさせるサインの感じ。これがことの発端となりました。

関内から伊勢佐木町方面へととりあえず向かい、適当に撮っていたんですが、この街自体の荒廃感、年末であって年末で無いというか、でもそこにも新しい風は根付いているわけで。

とはいえ沈んだような天気も相まって、町そのものも沈んで見える。

救急車やパトカーも早々に数台横を通過し、年末だからなのか、そんな空気感すらも町と調和してしまう感じ。

中でも印象的だったのが↓のT字路での一幕。

道路のど真ん中で停車し、大型ゴミや馬鹿でかい植木何かを捨てていく人。そしてそれを拾っていく人、さらに何かを物色している人。ついでに缶を持ち去る人。

ここは青空デパートなんか、と思ってしまうほどカオスな感覚。

町が人を作るのか、人が町を作るのか。全てがそのカオスさの発端になるような。

ここから少し山手の方へ移動してみます。

映画、パラサイトの様な上界と下界の世界。この隣接した関係性も両者が引き立つ要素になっているのは間違いないなと。歩いてみてこそ思う、それくらい物理的な距離は近くて、確実に遠い存在同士。

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耳をすませば(1995)

原風景ってこういうことなんだろうなと思わせる画作り。

耳をすませば(1995)』

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柊あおいの同名少女コミックスタジオジブリがアニメーション映画化。

読書好きな中学生3年生の少女・月島雫は、自分が図書館で借りてくる本の貸し出しカードの多くに「天沢聖司」という名前があるのを見つけ、それ以来、顔も知らない天沢聖司の存在が気になっていた。

夏休みのある日、図書館に向かう途中で遭遇した一匹のネコに導かれ、雫は「地球屋」という不思議な雑貨店に迷い込む。やがて店主の孫の少年が天沢聖司であることを知り、2人は徐々に距離を縮めていく。

しかしバイオリン職人を目指す聖司は、中学を卒業したらイタリアへ渡ることを決めていた。その姿に刺激を受けた雫は、本を読むばかりではなく、自らも物語を生みだそうと決意するが……。

宮崎駿高畑勲の作品を支えてきた名アニメーターの近藤喜文の長編初監督作。98年に46歳で他界した近藤にとって、本作が最初で最後の監督作となった。

劇中で雫が生みだす物語世界に、画家でイラストレーターの井上直久が描く架空世界「イバラード」が用いられている。

日々日常を過ごしていると忘れてしまっていること。

忘れているつもりもないし、忘れたいわけでもない。それなのになんなんだろう、この映画を観ると蘇ってくる、忘れてしまった感覚の数々。

95年公開ということを考えれば遠すぎるわけではないけど、今となっては少し遠く感じるような距離感もなんだかちょうどいい。

出てくるシーンや、出てくるもの、出てくる人や、出てくる街並みなんかを観てもそう、今との違いが浮き出てくる。

そんな中でも、内包されている人間の根源的な感覚や情緒なんかは変わらないなと思ってしまうわけで、むしろそれ以上に感じる本来的な在り方みたいなものを感じさせてくれるからこの作品は魅力的なんだと思う。というかジブリにはそういったノスタルジーの本質みたいなものが詰まっているんだと思うんですよね。

技術の進歩によって希薄になってきてしまった人との関係性、コミュニケーションが希薄になり、技術革新により、何でも手が届くようになってしまった弊害。そういったなんとなくモヤモヤと考えていたようなことをドストレートにぶつけられているような感覚。

個人的にジブリ作品で好きな作品に共通することがあって、それが『絶対にアニメーション的な気持ち良さがある』ということ。その意味で本作は『縦を意識した画作り』これが圧倒的に気持ちいい。

街並み、自宅からの風景、地球屋からの風景、雫が考える物語の中での空と地上、学校での屋上からの、図書館への道のり、ラストでの日の出の風景など、挙げたら切りが無いくらい。こういった縦の心地良さというか、気持ち良さがメチャクチャあるんですよ。

物語の中で初めて図書館を訪れる時のカットの割り方と構図、そのテンポ感からの流れなんて特に最高で、ただ図書館に行くだけなのにわくわくしてくる。こういったアニメーションとしての気持ち良さもジブリならではなんですよね。

物語に関してもジブリの中では珍しめな時代設定がツボで。

現代を舞台にしているからこそ、より親近感を感じ、ファンタジー要素が排除されがちになってくるところを、意外にバランス良く混在させている感じ。寄り過ぎないというのが肝だなと思うところではありますが、その辺の設定も良いんですよ。

設定と言う意味では、出てくる美術や建物、家族構成や、家族個々のパーソナリティなんかも含め、絶妙なところを突いているなと。

団地に住み、家の中もあまり整理されていない、雑多な感じ。そこで各々のリアリティあるようなところと、だからこそ染み出てくるような雫のパーソナリティ。

本が好きで、物語が好き、学校での過ごし方や、そこでの歌詞を訳すくだりなど、とにかく物語と言うものに対する憧れに近いところも、あの生活水準で、あの家族、あの時代だから湧き出てくるような環境設定。

やっぱり皆何かを夢見たいわけであって、その夢の見方は違えど、平等に与えられているからこそ見ていたいじゃないですか。

そんな当たり前なことをあれだけ説得力を持って、シンプルに語られてしまったら、それは夢を見るしかないでしょう。失ってしまったそんな感覚が呼び起されて当然でしょう。

雫をはじめ、出てくる登場人物や猫、そうした配置や設定の巧みさがあればこそ出来ることをあたかも当然のようにやってしまう宮崎駿の手腕よ。

同時に、想像することの重要性を感じるというか、それって絶対に他人が踏み込めない領域なわけで、しかもそれは夢を見ること以上に万人に平等に与えられているような行為なわけで。

今って情報をインプットしたり、スマホなんかで時間を浪費したり、文字通り浪費というものに時間や労力を、無意識的に費やしている時代だと思うんですよ。

その中で、思いふけること、空想してみること。こういった一見すると無駄に感じるようなことに時間をかけてみることこそ必要なんじゃないか。その方が有意義に過ごすことができるんじゃないか。雫を見ているとそんなことを思ってしまうわけですよ。

物語の構成的にも、シンプルながら様々な感情が詰まっているなと思っていて、誰かを好きになること、好きになられること、熱中すること、諦めること、努力すること、焦がれること。

ホント考えれば考えるほど、失ってしまったような感情の断片が散りばめれれている気がしてくる。

雫と聖司という二人を軸にしながらも、その他の人物との関係性で深まっていく、アイデンティティを感じさせてくれるし、そのメタファー的な存在としての猫の存在も終盤にいくにつれて、どんどん効いてくる。

あの猫の捉えどころの無さ、要するに個人が抱く感情の捉えどころの無さを象徴しているようで、段々響いてくるんですよね。その存在自体が。しかも、風貌も徐々にチャーミングに見えてくるというジブリマジック。

バロンの存在もそうで、人やモノにはそれぞれ物語があり、物語の積み重ねがそれを構成していく。

エンゲルス・ツィマー(天使の部屋)と表現されていた、人形を作る際に出来た傷が元で起きる光学現象。

これもまたその人形独自の歴史ですし、その歴史が見せる素晴らしい現象、それこそが人を惹きつけ、心を奪うようにも思える。

原石の話もそうで、磨いたことでダメになるもの、逆に磨くと輝くもの、どちらになるかはわからないけど、誰の中にも原石は眠っているわけで、それを磨くかどうか、どの原石を磨くかどうかというのは個人の裁量次第。

まず、磨こうとすることそれ自体が非常に重要で、ダメなら別の道を行けばいい。雫の母が学校で学び直しているように、姉が進路に悩み大学に行くように。

その関係性としても聖司は良いパートナーなわけですが、彼自身も試さないで何かを決めつけることはしないし、何より全ての行動に後ろめたさが無いところが良い。

一番端的に表しているのが雫にイタリア行きの話をするところですが、クラスを訪ね、人目も気にせず呼び出す。その後の屋上でのくだりにしても素直に率直に雫に伝えるという思い切りの良さ。これは背中押されますよ。

この辺にしても、今の時代はやらなくてもわかるとか、諦め、時間の無駄、そういったIT時代に成就されてしまった、わかってしまう感、これのアンチテーゼを感じて、ただただ熱くなってくる。

そこに恋愛要素や学園要素の王道路線を加えることでまあ完璧ですよ。

冒頭にも書きましたけど、それを纏め上げるジブリ独自のノスタルジー効果。この映像としての、アニメーションとしての見せ方が完璧だからこそ、ホントに近しいものとして感じてくる。

心の中にある、あの日の風景のようなものを圧倒的なリアリティで蘇らせてくれるからこそこんなに響いてくるんでしょうね。

今年の夏にどうやら宮崎駿監督の新作も出るようなので期待をブーストする意味で色々と観返してみようかなと思います。

余談ですけど、これって原作がりぼんに掲載されていたもので、しかも打ち切りになった作品だって言うんだから面白い巡り合わせですよね。

風立ちぬもそうですけど、宮崎駿

では。

守備の守備による~アーセナルvsニューカッスル~

現状3位は伊達じゃなかった。

『守備の守備による~アーセナルvsニューカッスル~』

Mikel Arteta rages at 'scandalous' missed penalties in feisty Newcastle draw

ここ数試合のハイライトなんかは観ていたんですが、強さはやはり本物ですね。

アーセナル自体も紛れ無き強さを発揮しているので、やってくれるとは思っていましたが、想像以上に相手もやれる。

攻撃に関しては正直正反対と言いますか、手数をかけたり、ファンタジックなプレーで突破口を開くアーセナル、対してニューカッスルは手数少な目のダイレクトプレー。

守備に関してが今回のドローゲームとなった要因だと思いますが、これは似てるんですよね。

プレス強度高め、ラインコントロールは相手次第、カバーリング流動性を持たせたスタイルで、プレスバックやトランジションといった意識は常に高く。

アーセナル、枠内シュート4に対してニューカッスル1だったんですが、ビッグチャンスはアーセナル0、ニューカッスル2なんですよ。

共にギリギリで攻防したっていうことなんでしょうけど、とにかく勝ちたかった。

とはいえ悪かったわけではないのであれなんですけどね。

それにしても中盤の攻防は面白かった。

パーティの奮闘っぷりと重要さを再三感じましたが、スタッツを見てもそう。

中盤の制圧率よ。

地上戦、空中戦をとってもこのスタッツですし、何よりポジショニングの良さ、そこからの縦への意識とハブとしての機能性。ここにフィジカル的な強度も合わさるから、要するに最強。

ただ今回は相手のマーク、ギマランイスも良かったんですよ。

パーティに付きつつもポジションは極めて流動的、攻守にわたっての起点になっていたところ含め、まあ良かったわけです。こういうどこにでも顔を出す選手がいると前節のウーデのような状態なわけですが、やはり捕まえづらい。

逆に言えばトーマスがいなかったらと思うと・・・。

この試合ではサリバとマガリャンも安定していたので激ヤバなシーンも少なかったかと。

それでも攻めきれなかった。

ジャカの飛び出しも相変わらずソリッドでしたし、サカの特攻隊長っぷりもさすがでした。

攻撃で言うと、決めることは出来ませんでしたが、ここ数試合のエンケティアの関わり方は良いですよね。以前よりも得点のにおいを感じる。

特にターンの上手さ。相手を背負ってもそうですし、背負わずにするターンもスムーズで上手い。体幹がしっかりしているのとターン後の位置関係を把握しているからこそ出来るのかなと。

とりあえず最低限のドローゲーム。まあ今のニューカッスルの力を考えれば仕方が無いのかもしれません。

見ない間にニューカッスルもかなり進化していたことが何よりの驚きではありましたが。

戦術もそうですし、個々の選手に関してもそう。資本の影響もそれはあるでしょうけど、それ以上に。

トリッピアーも落ち着いた守備、そしてキック精度も高く。シュアーとボトマンのボールキャリー出来てブロック、寄せ、そういった能力の高さ。ダンバーンなんてSBで190越えの身長とか異常ですし、しかも意外に早い。アルミロンやウィロックといった引き出しと技術力のある選手もいますし、バランスが良いこと。

では。